2011.3.11 14:46を忘れない。


(そう、あの日シアトルに桜が咲いていたんだよね。)


1年前の今日、僕はアメリカにいた。
日本での揺れや、買い占めや、同じCMが繰り返されることなど、知る由もなかった。
しばらく経ってから、当時未公開だったこのブログに文章を書いた。何が書きたかったわけではないのだけど、僕の3月11日も書き留めておきたかった。

ただ、それだけだけど、ブログで記録することの大切さを感じる。
あれから1年。今日も太陽が眩しい。

                                                                                      1. +

2011年4月20日


震災時、僕はシアトルにいた。
その時の揺れも、人々の戸惑いも、帰宅困難も体験できなかった。
でもなんとなく、僕もあの日のことを残しておこうと思う。

その時、アメリカは夜で、ツイッターを横目に勉強をしていた。blue moonというお気に入りのビールも飲んでたね、確か。
ツイッターがあっという間に「ゆれ」で埋め尽くされると同時に、ホストファザーが部屋をノックして地震を知らせてくれた。

最初は「東京が相当揺れてパニックになっている」ことが大きなニュースだと思ったのだけれど、少し時間が経つと東北地方が壊滅的な状況にあることがわかった。
もうツイッターで「はらへったなう」なんて書くやつは誰もいなくなった。

みんながみんな励まし合い、情報を投げ合った。

状況を逐一知らせてくれたのは、他でもないツイッターで、UstreamNHK中継にはさすがに驚いたけど、とても助かった。嬉しかったという形容でも間違いではないと思う。

家族からは僕からメールをする前に「全員無事」とメール。とても安心した。仙台に住んでいる人ですぐに思い出したのは3人。

ひとりは、小学校の頃のサッカーコーチの佐山さん。
ひとりは、PARACUPのweb担当の三浦さん。
ひとりは、アホ飲み仲間のレオナ。

三浦さんはツイッターで、レオナは友人を通じて無事を確認。山元町に住む佐山さんだけは連絡が取れないままだった。(2週間後にgoogleで見つけることができた)

深夜にベッドに入ったのだけれど、どうにも落ち着かず、ずーっとツイッターを眺めてはタイムラインに居る人たちを励ましていた。
今になって思うと、励ましたかったのは自分自身で、たぶん皆に「大丈夫?」と言ってほしかったのかもしれない。(アメリカにいたから当然大丈夫なんだけれども)

翌朝、CNNの映像を見て唖然とした。
東京でNYの9.11を見ていた心境とまったく同じだった。


「これって本当に起こったん?」


バナナを齧りながら乗り込んだバスでおばあさんに、「日本の無事をお祈りするわ」と抱き締められた。日本人であるというだけで、バスの運転手、サブウェイのレジのお姉ちゃん、食堂のおばちゃん、道で物乞いしてるおっさんにまで「大丈夫か?」と聞かれた。
そして、大丈夫と聞かれては、「大丈夫」と返す。

彼らは福島と東京の距離感なんて知らないし、アメリカから日本を見るとひとつの州くらいの大きさに感じるわけで、余程みんな心配だったのだと思う。


あの日、シアトルで珍しく太陽が輝いているのを見て、なぜか泣きそうになった。


テレビはしばらくローカルニュースまでもが日本の話題だった。最初は被災の状況、次に日本人の慎ましさ(列に並ぶ、お年寄りに優しいなどなど)や冷静さ、テクノロジーの高さなんかがフィーチャーされ、その後、原発がああなってからはもう原発一色になった。

20代の青年がやっとカップラーメンを手に入れたのに、それを次に並んでいるおばあさんにあげている映像が流れ、泣いた。
それを見たホストママも「次産まれてくる時は日本にするわ」って僕に見せないように泣いていた。

いろいろなことが起きた。
地震もそうだし、地震にまつわることもそうだし、いろいろ。


人生観が変わった、なんて言い方をすると大げさに聞こえる。
「あの震災も経験しないで」という声も聞こえてきそうだ。

だけど、少なくとも僕の中で何かが確認できた。生と死は別々に存在しているのではなくて、死は生に包含されている(もしくは逆なのかもしれない)ことがより明確になった。
いのちは理不尽に奪われる可能性があることもくっきりとした輪郭をもって胸の内に存在するようになった。

だからどうのこうのっていうのはあまり好きじゃないのだけど、いくつかのことを決めた。内緒だけど。

まとまらないまま掲載するのはとても恥ずかしいけれど、この中に含まれている僕のエネルギーは僕だけのものだ。


3.11からもう1ヶ月以上経つ。
今、僕らができることのひとつに「忘れない」ことがあると思う。それを一生懸命しようと思う。